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いつからか私は、軽快でリズミカルなものへの興味が薄れてきていることを自分自身で感じていた。それはいつからだろう?フラメンコを踊るのもそろそろ潮時かと感じていたあたりからだとしたら、4年くらい前ということになる。世に人気のある様々な踊りを色々見ていても感動しなくなってしまったのだ。踊っている人の技術はその人の努力とセンスの賜物なのでそれだけは素晴らしいとは思う。ただ一般的に、生まれてはじめて客観的になぜ踊っているのかを考えずにはいられなくなってしまったのだ。

自分がそう感じてしまう原因がなんなのか日々考えていて最近わかったことがある。それは、往々にしてこの社会の中で踊りがエンタメ的な要素で充満していることがつまらなさを感じさせる要因なのだと思った。

エンタメとはエンターテイメントの略だが、一般的にエンタメと言ったら人を楽しませたり、もてなすといった感覚がある。試しに広辞苑で調べてみると「娯楽、余興、気晴らし」とある。つまり、エンターテイメントは人受けするということが大事なのだ。

踊りでいえば、なんといってもまずは動きがあるもの。アクロバティックな技を入れたり、リズミカルであったり、軽快さや激しさなど目に見えてわかるようなテンポ感。そして衣装や舞台装飾、演出などによる彩りや派手さ。エンタメとは人を楽しませるための娯楽なので、万人が見て分かりやすいということが大切になってくる。商品で言えばコンビニやスーパーに置いてある人気商品のように、誰が食べても美味しいと感じる定番のお菓子やおにぎり、ジュースと同じ感覚。おおよそ自然とは対照的だ。

エンタメとアートの違いは何か?それに、日本では芸術とアートと二方の言い方をする。そのニュアンスの違いは何かを考える。アートは元々英語でArtだが、日本語に訳すると芸術。しかし、日本でいう”アート”のニュアンスは”芸術”とは一見違うように感じる。アートという言い方をするときはなんとなく社会運動・または芸術運動的なものが多いように感じている。例えば、ポップアート。ポップアートは元々、大量生産・大量消費社会をテーマとして表現する芸術運動だ。日本語で商業美術とも云うらしい。
コンセプチュアルアートというものもある。日本語に訳すと概念芸術といい、1960年代頃の前衛芸術のムーブメントの一つだ。物そのものというよりも、そこに込めるコンセプト、思想、含意を重要視している。

昨今は「アート」という言葉は誰でも日常的に使える言葉の一つだ。ラテアート、ネイルアート、トリックアート、グラフィックアート、パフォーミングアート、ジャンクアート、パブリックアート・・・・たとえ訳すれば”芸術”という意味であっても”アート”とするとなんとなく日常的で更に手軽に楽しめる感がある。

これら色々考察してみると、私の個人的な感覚では「アート」は人々が楽しめるものといった感じがする。「芸術」はより学術的で専門性を感じる。そして芸術という響きはどこか社会とは一定の距離感を保っている立ち位置にあるもののように感じられる。それはきっと、芸術は忖度をしないからなのだと思う。人に受けたり気に入られるためにやるものではなく、忠実に本能に従って表現をする。その作品に後付けしてくる値段などの物の「価値」は芸術作品に至ってなんの意味もなさない。
つまり日本語におけるアートと芸術の違いを一言で纏めると、

⚫︎アート=社会的価値観、機能性、商品
⚫︎芸術=個々の本能であり生きているもの、思想、感性

なぜ人受けすることが面白くなく感じてしまうのか・・・
それは価値観を無理矢理共有させられている気がするからなのかもしれない。
なんならやらしいとさえ思ってしまう。
いわゆる”俗”な感覚だ。

ここに記述しているのは全て私の感覚的な内容だから、私はどこまでも忖度せずに書き記す。
私が好きで良いと思う作品は、人間の本能に語りかける作品だ。
それは決して人を楽しませる内容のものではないかもしれない、しかし表現しなくてはならないようなものだから表現するために出来上がる作品は人間による良い産物だ。

例えば、戦争物。これは見たくない人はたくさんいるだろうし、決して楽しいものではないけれど、戦争という人間の犯す歴史的な過ちに対して、また時の政治家達など誤った考えや事物に対してしっかりと批判し続けなくてはならない。決して人間が忘れてはならないようなものだからこそ、時代を越えてもその想いや悲惨さを表現していかなくてはいけないのだ。

本能に語りかけるものは何も辛いものだけではない。
例えば、感覚的な表現も良い。特に現代人は時間に縛られていて「嗜む」余裕は殆ど無いから世の大半を締める一般人には何も響かない可能性はあるが、そんなことは関係ない。大勢に受けることが目的ではない。表現せずにはいられない感覚を本能的に表現していく過程が大切だ。

では、なぜ表現するということがそんなに大切なのか?
その問い自体に意味はない。
そんなこと、なぜ生きることが大切なのか?と質問するのと同じことだ。
なんであなたは生きているんですか?と聞くこと自体が無意味であるのと同じ。
表現とは必然性だ。
生きることも必然性だ。
計算ではない、誰かのために生きているわけでもない。
つまり誰かのために表現するものでもない。

物事がエンタメ化し過ぎると、本能的なエネルギーを感じなくなる。
まるで機械で動かされた動植物のようだ。

うつくしくない・・・・・・・・・・・・

尊くない・・・・・・・・・・・・・・・

小説の良さは、価値の共有を促すような無駄な装飾が無いことだ。
文字だけが頼りで、あとは読み手の感性によってその世界観が成り立っていく。
静かにそれでも多くの繊細な感覚を感じることができる。

静かさは豊かさだと思った。

例えば心臓の音。
普段は自分の耳には聞こえない音。だけど時々夜に目が冴えて眠れない時まわりがとても静かに感じるときに、自分の心臓が打つ音というか、動きをトクトクと感じることがある。

同じようなことを私が琉球舞踊の初舞台で踊った時にも感じた。

切羽詰まるような感じではなかったのだけれど、やはり初めてだけあって緊張感があったのだろう。あのゆったりとした音楽の中でゆっくりと一歩一歩時間をかけて歩んでいくときに、自分の心臓の音がドクドクととてもけたたましく鳴っているのを感じた。

心臓が打つということは、生きているということ、存在そのものだ。
そんな大切な音を感じるためには静けさが必要なのだ。

静けさとは、余白

余白は自然で

余白とはありのままのこと

余白は時であり、間でもある

余白があるからよりグッと感じさせる

余白を埋めるのが人間の合理性

余白を活用としようとし過ぎる

余白を埋めるものはなにか?

物、技、音、装飾
それらはなんのためにある?
人受けする商品にするため
その商品は評判によって付加価値が付く
社会に流通することで
儲けになる

余白を埋めるものは

一時的な価値観に過ぎない

余白とは秘めたる永遠性だ

余白の美

静けさの美

ゆっくりと動作するということは実は物凄くダイナミックなのだ・・・・

ゆっくり動くことのダイナミックさについては・・・

話が長くなるだろう・・・

また気が向いたときに書きます。

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