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琉球舞踊の美しさはなにか?

それは、その舞踊の持つ普遍的な動作にある。

伝統芸能ならではの人間関係やルール以前に、私には人間社会の価値観さえよく理解できないことが多いのでコミュニティーの観点における伝統舞踊の見識は毛頭無い。

あくまでも、自分自身が天命と感じて踊りを踊っているなかで感じることをありのまま記している。

私は琉舞ほど美しい踊りを見たことがない。

初めて琉球舞踊というものを見たのは高校生の頃だった。沖縄を旅していて恩納村の浜辺で祭りが行われていた。ビーチから海にかけて舞台が組み立てられており、丁度陽の沈む頃に舞が行われていたのだ。

空が段々と暗くなるにつれ海の青さも仄かにくすんでいく。そこに紅い夕陽の線がくっきりと差し込む。そんな背景をバックに舞が行われていた。その静かで、厳かで、幻想的な雰囲気に全身で気を取られて見入った。

これはなんという踊りなのだろう・・・

見たことのないものを見ながら、人々の生活と自然が調和を成して完全に一体化したような不思議な雰囲気と感覚に浸り、その頃のわたしにはこうハッキリとした感情も言葉も見つからなかった。まるで夢を見ているかのようだった。

なんだかわからないけどうつくしい・・・

それがわたしの潜在意識に確実に刻まれていたのだと今になってわかる。あの時見た景色も雰囲気も感覚も今まで忘れたことがない。

それからしばらく経ち26歳の頃、友達と沖縄を旅していた時にたまたま琉球村で古典舞踊「四つ竹」を見た。その時はかなり鮮明な感動を受けた。心の底から震えて見惚れてしまった。「この踊りだ、これ以外にはない」という感覚を強く感じた。

しかしその時は琉舞を始めるどころか、感動のインスピレーションで一心不乱に創作に打ち込んだのだった。

そして、2020年夏。わたしは31歳だった。
世界中がコロナの脅威にざわめき、自身の生活は殆ど変わらなかったもののなんとなくこの世界の大きな変化の渦の中で漠然と「琉球舞踊をやろう」と思った。すぐに稽古場を探して通うようになった。

琉舞を始めて以来、それまで自分の中にあった舞踊感がすべて崩壊されてしまった。

今まで踊ってきたものがなんなのか正直よくわからなくなってしまった。

それは、琉球舞踊の動作が極めてシンプルでありミニマルであるという点にあるのだと思う。

全ての動きに必然性がある。
そして無駄がない。

ミニマルな動きの中で非常に豊かな情感を表現しているのだ。

あのゆったりとした三線の音、唄の抑揚。笛や胡弓、琴のハーモニーさえも然るべきタイミングで鳴っている。ミニマルでありながらグッと確実に気持ちを掴んでいくのだ。

まるで動物の鳴き声のようにも感じる。

一種の言葉を欠いたコミュニケーションであり、至極本能的な音色だ。

音が空間に漂い、その音色をうけて舞は一層にうつくしく嫋やかな光を放つ。

ひとつひとつの動きにもの凄い説得力があって、その僅かな動作の違いで全く表情が変わったように見えること。その静かでしなやかな感情表現に慄き、感動でわたしの頭は禿げあがりそうになる。

琉球舞踊は王朝時代から引き継いでいる古典舞踊の他に、明治時代以後にできた雑踊りや戦後以降に新しく出来た踊りを創作舞踊とし、大まかに3つに分類ができる。雑踊りは王朝の崩壊以降、庶民の生活の中でできあがってきた踊りなので、庶民の生活感のようなものがある。雑踊りの中には軽快なものもあるので、琉球舞踊の全てがゆっくりで厳かな雰囲気というわけでもなく、曲によるのだ。

わたしは他の踊りをしていなかったら琉球舞踊の素晴らしさに出逢うこともなかったのかもしれないと思う。

その土地にいる人々は、その伝統や文化という習慣の中に生活しているからこそ、その心みたいなものを他所の誰よりもわかっていると思う。しかし、外部の人間は渦中の人々とは違った広い視野でその特定の土地の文化の素晴らしさや光を認識することができる。

舞踊を学ぶということは、文化やその土地の風俗を知るということ。
様々な文化に触れながら踊ってきた経験が同時に自分自身の感性を育んでくれたのだと思う。
そうして、琉球舞踊のうつくしさに全身で感動できることが幸せに思う。

「人は無為より生じ、無為を知るため有為を経て、無為を自覚し、無為に至る」

動きの中の静や空間としての無は一貫しているけれど、対極の動や有というマキシマムな表現に全身で没頭する時間を経て一層、その静と無の価値の大きさに気がつく。
そんな感覚がした。

じっと立って、じっと見つめて、じっくり存在して、ゆっくり歩む。

この時間軸のなかに、すべてがある。

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